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航空機乗務員の健康に係る疫学研究

航空機乗務員を対象とした初期の疫学研究は、軍用機乗務員の健康管理を主な目的として欧米で実施されてきました。最近、特に1990年半ば以降は、乗務員の一般的な健康状態だけでなく、宇宙放射線への被ばくの影響に着目し、民間機航空機乗務員を対象とした調査研究が欧州諸国を中心に盛んに実施されています。

航空機乗務員を対象とした疫学研究は、中性子や陽子への被ばくによる健康影響を直接評価できるという長所があります。一方、航空機乗務員の疫学研究はいくつかの限界を持ちます。特に、雇用時あるいは雇用中に定期的に厳しい健康診断を受け、健康な人だけが乗務員として働くことができるため、航空機乗務員の悪性腫瘍(がん)死亡率などを一般の人々と比較した場合、それらの死亡率は見かけ上低く現れます。こうした現象は「健康労働者効果(Healthy Worker Effect)」と呼ばれます。喫煙や飲酒など、宇宙放射線以外の様々な因子の影響を除くことも必要ですが、現状では極めて困難です。また、比較的低いレベルの放射線の健康影響については、疫学研究で統計学的に検出するためには極めて多くの人々を調査する必要があり、航空機乗務員の疫学研究もこの「検出力不足」の問題があります。

こうした限界はあるものの、欧州では、民間航空機乗務員を対象に数千人〜数万人規模の疫学研究が実施されてきました。これらの研究の多くでは、がん登録制度に基づいて確認した悪性腫瘍の罹患率が解析されています。ただし、宇宙放射線被ばくに関しては、雇用年数や搭乗時間を解析に用いており、推定あるいは測定された個人線量を解析に用いた例はほとんど見当たりません。

航空機乗務員における悪性腫瘍を全部位で一括して見た場合、その死亡率や罹患率は一般集団と比べて低いか同程度であることが多くの疫学研究で報告されています。すなわち、これまでの疫学的知見からは、航空機乗務に伴う宇宙放射線による被ばくは、悪性腫瘍全体のリスクを明らかに高めるほどのレベルではないことが示唆されます。

一方、悪性腫瘍は部位によって放射線に対する感受性が異なることが知られており、また、発生メカニズムも部位によって異なると考えられるため、部位別に解析した研究結果が重要です。航空機乗務員を対象とした疫学研究でも、いくつかの部位については死亡率や罹患率の増加が報告されています。

そのうちの1つは女性乳房で、フィンランドの客室乗務員約1700人における乳がん罹患率は一般集団と比べ1.9倍と統計学的に有意に高いことなどが報告されています。ただし、乳がんのリスク因子である出産歴などの生活様式、また不規則な就労時間や精神的ストレスが交絡している可能性があり、罹患率の増加を宇宙放射線による被ばくだけで説明することは困難です。

もう1つは皮膚がん(黒色腫と非黒色腫)です。多くの疫学調査では、皮膚がんのうち、非黒色腫の増加は放射線被ばくと関連していることが報告されているものの、黒色腫と放射線被ばくの関連は明らかにされていません。しかし、航空機乗務員における皮膚がんは、いずれの種類についても死亡率や罹患率が一般集団と比べて高いことが報告されています(図6)。一方で、紫外線が皮膚がんの主要な因子であることから、航空機乗務員における皮膚がんリスクの増加は、野外でのレジャーに伴う紫外線曝露が起因しているのではないか、という指摘が古くからあります。

図6. 航空機乗務員における皮膚黒色腫の標準化罹患比(SIR)と死亡比(SMR); CA:客室乗務員、CC:操縦室乗務員、PL:操縦士.

なお、原爆被爆者を初めとする疫学研究で、放射線被ばくとの関連が最も明瞭に示されてきた悪性腫瘍の1つとして、白血病があります。航空機乗務員に対する疫学研究でも、白血病の死亡率や罹患率の増加を指摘している報告がありますが、症例数が非常に少ないため、偶然によってもたらされた結果の可能性があります。脳腫瘍など、その他の部位の悪性腫瘍についても航空機乗務員における増加の報告がありますが、症例がわずかで、白血病と同様のことがいえます。

このように、航空機乗務員を対象とした疫学研究では、乳がんや皮膚がんを初めとするいくつかの悪性腫瘍が一般集団と比較して高いことが報告されている一方で、乗務歴や被ばく線量とそれらの疾患のリスクとの間には明瞭な関連が認められていません。航空機乗務には、放射線以外の様々な物理的、化学的、精神的なストレスを伴うため、航空機乗務員における悪性腫瘍増加を宇宙放射線への被ばくだけで説明することは難しい状況にあります。疫学研究の課題の1つとして、航空機乗務員に影響を及ぼす様々な因子の影響を十分に制御しながら、正確に推定された被ばく線量値に基づいた解析を実施し、航空機乗務員の健康の維持・増進に役立つ形で情報を提供していくことが望まれていると考えています。

(参考文献)
4-1) 吉永信治, 保田浩志: "航空機乗務員のがんとその他の疾患-疫学研究による最近の知見-", 放射線科学, vol.48(2), pp.52-61, 2005.

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